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第八回テーマ 「遊びもの」

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「遊びましょ……」

T・Tさん

友達の清子ちゃんが「遊びましょ」と誘いに来た。手に“ゴザ”と“ホーキ”を持っていた。

私は学校の宿題をしていたが、放り出して家を出た。今日はどこへ行こうかと清子ちゃんが言う、私はいつもの電車が走っている高架の側がいいと言い、礼子ちゃんも誘うことにした。近くに原っぱがたくさんあるので、その日によって変えることにしていた。

原っぱで何をして遊ぶかというと、ゴザを敷いて穴を掘ってダンゴ作り、ホーキで砂を集めて形を作ったり、飽きると走り回ったり、おしゃべりをして笑ったり、いろんな遊びを考え出して何がそんなに楽しいのか尽きない。

そんなある日、雨上がりだったので水溜りがいくつもできていた。私はスコップを持ってゴザに座り、水溜りを掘った。すると一銭銅貨が二、三枚出てきてびっくり、そしてもっと掘ってみるとザクザク十二、三枚出てきた。呆然として思わず後ろを見回して誰も気づいていないことを確かめた。水溜りの水でそっと洗い、急いでポケットに隠した。

家に帰っても母にこのことを話さず、秘密にしていた。そしてどこかに隠した(結局、このことについては今記憶をたどってもそのお金をどうしたのか、何に使ったのか、誰かに話をしたか、覚えていない。不思議だ)。

遊びを終えて清子ちゃんの家で手を洗い、解散しようとしたとき、清子ちゃんのお母さんがおいしい焼き飯を作ったから食べなさいと、丸いお膳の上に用意された三人分の皿に盛ってくれた。そういえば家に入ったとき、ゴマ油のいい匂いがしていたのは、このご飯だったのだ。青ネギと黒ゴマのかかった焼き飯は本当においしかった。

あの頃、おままごとや人形遊びを一度もしたことがなかったのを、七十年経って思い出した。やっぱり私はおばあさんではなく、おじいさんなのかもしれない。

 

「遊び……」

K・Nさん

遊びをせむとや生まれけむ 戯れせむとぞ……

昭和も三十九年ごろまでだったろうか、どこの家も貧乏だったが、人情は篤く町ぐるみ家族のような浪花節的幸福度は上位のわが故郷。小学校でも「よく学び!よく遊べ!」で、われらは学びを怠たり遊びに専念した。

道草しながら家に帰ると「待ってたよ」と、ヒデ君。「パッチン(メンコ)しよう」で、全部持っていかれ、暗くなるまで独り練習していて右腕痛め、妹来りて「晩御飯だよ!」。ヒデには酷ぇ取られ……今でも川上の赤バット、青田の青バットの絵を想い出す。

二人の兄とは年齢が離れていたせいか、小学四年の終わり頃までは四歳下の妹と妹の友達に可愛い子がいてよく遊んだ。お店屋さんごっこを仕切ったり、 「かごめ、かごめ」などの遊戯まではよかったが、エスカレートして探検隊と称し映画館やどさ回り劇団の演芸場へ裏口から侵入するに到っては妹たちもついてこなくなった。

五年生になると母が中古の自転車を買ってくれたので、得意になって乗りまわしていた。

裏の家のタッちゃんが誘いにくるようになり、三キロ先のコブ山へ行って、よく遊んだ。池では河童、森ではターザンになるタッちゃんと隠れ家も作った。山里の柿も勝手に頂いた。だいたい果物は自然にあるものとして家ではあまり買わなかった。実家にもザボン、枇杷、無花果の木や低木のしゃしゃぶ、ゆすらなどがあり、さくらんぼやもくの実は池の堤に、桑の実は先生の家の木に登って頂いた。田んぼの用水路を堰き止め、小魚を丸捕りしようとして農家のおやっさんに追いかけられた。

七十六歳の今でも脚腰が丈夫なのは、あの頃のお陰だ。

 

「商店街に育てられた子供時代……」

I・Iさん

ゴム跳び、ままごと、かるた、百人一首など、子供時代の遊びを思い出していたら、きりがないほど、それと同時にその頃のことが脳裏に浮かんできました。

商店街で生まれ育った私だからこそ、そのように思うのかも知れませんが、記憶の中にある昭和二十年代から三十年代の商店街は本当に活気に満ちていました。茶わん屋、傘屋、帽子屋、メリヤス肌着屋など、今ではスーパーやデパートの一角で当たり前のように揃えられている品々ですが、それぞれが独立した店で扱われていた時代です。普段着として着物を着ている女性も多く、呉服商を営んでいた実家は結構繁盛していました。

品物を買うだけでなく、お店の人たちとの世間話も買い物の楽しみのようでした。風邪をひいて大変な目にあったよとか、温泉へ行って来たからお土産だよとか、下駄屋の健ちゃんが足を骨折したらしいよとか、しばらく顔を見せない客がいれば具合でも悪くなられたのだろうか心配だなどと、商店街住人は客も含めて一つの大家族のようでいつも楽しい会話が弾んでいました。

そんなの生活環境のなか、子供たちの遊び場といえば、商店街の中心にあるお寺の広い境内で、缶蹴りや縄跳びをしたり、少し疲れたらお御堂の階段に座って、あやとりやおはじきをしたり、墓地に咲いている草花で莖相撲をしたりと、子供たちにとってどんな遊びもできる最高の場所でした。小腹が空けば、お寺の斜め前にあった駄菓子屋へ「おばちゃん、ちょうだぁーい」と、一串五円のおでんやお好み焼きを食べによく駆け込んだものです。

親から勉強しなさいと言われることもなく、学校が終わるとお寺の境内に集まり、陽が暮れるまで駆けずり回って遊ぶ毎日、今思えば大勢の大人たちに見守られ、ずいぶん贅沢な子供時代を過ごせたと思います。

 

「メンコ遊び……」

H・Mさん

私の子どものころには、高価なおもちゃはとても買うことができず、町の駄菓子屋で売っている道具を使い、友達と遊び方を工夫しながら楽しんでいた。昭和の初め、男の子の遊びにはメンコ、ベーゴマ、けん玉、竹馬などがあり、女の子はおはじき、お手玉、あやとりなどで、いずれも安価で手軽に手に入るものばかりだった。

遊び場もほとんどが空き地や路地。当時は自動車は珍しく、せいぜい自転車や人力車が往来していたくらいなので、道路を占領して遊んでいてもあまりとがめられなかった。いろいろ遊んだなかで、私がいちばん夢中になったのは「メンコ」だった。

「メンコ」といっても、今ではすっかり消えてしまい、知る人も少なくなったが、長方形の厚紙に当時の有名人が描かれており、裏面にはその人の経歴などが印刷されていた。男の子が一度は体験した遊びだった。遊び方はきわめて簡単で、地面に置いた相手のメンコに自分のメンコを打ち当てて、裏返せば勝ちとなって自分のものになるというゲームだ。互いに取ったり取られたりしたが、自分の大事にしていたメンコが相手に取られたときは、とても悔しい思いをした。

私がいちばん好んで集めていたメンコは、相撲の力士が描かれたもので、特に双葉山、羽黒山、名寄岩、前田山、鏡里、千代の山などの人気力士のメンコは、宝物として大切にしていた。ラジオの中継放送で大相撲の人気が高まり、大人も子どもも興奮した時代に、メンコを通して力士の名を覚え相撲ファンになった。

コンピュータ仕掛けの精巧な玩具にあふれている現代に比べ、単純に作られ、子どもにも手の届く安さで遊べた古き良き時代のおもちゃを、今しみじみ懐かしく思う。

 

「物々交換の愉悦」

馬場先智明(「言の葉」の風 ─ ⑧より)

2月のワークショップのテーマは、幼い頃の「遊び」についてでした。迷わず「ベーゴマ」を絵に描いた私でしたが、実はそれ以前の幼少期にハマった「遊びの原風景」ともいえるものがあったことをそのあと思い出しました。

それは用済みになった靴の空箱に、ありとあらゆるガラクタを仕舞い込んでおくというものでした。日常生活のなかで用済みになった部品の一部、磁石の破片、道端で拾った正体不明の金属片やガラス片、公園に落ちていた木の実や葉っぱ、変わった形の石ころ……。小さな私の「お眼鏡に」叶ったモノたちは、とにかく蒐集の対象となりました。

別に蒐集が私固有の「癖」だったわけではなく、貧乏な我が家にはテレビはもちろん、これといったおもちゃがあるわけでもなかったので、そうした環境で生みだした私なりの工夫だったのでしょう。

そのガラクタを集めた宝箱を私は「お道具箱」と呼んでいました。そしてもう一人、同じような箱を持っていた幼友達がいました。いたことは確かですが、顔も名前もまったく思い出せないのは不思議ではあります。二人はそれぞれのお道具箱を持ち寄って、お互いの箱の中身を覗き込んでは手に取り、気に入ったモノがあれば交換し合いました。「ダンナ、いいブツが手に入りやしたぜ」「どれどれ、ホ~っ、こいつはいいや」といった感じで、二人の幼児は、秘蔵の一品を交換する密かな遊びに熱中したものでした。

ガラクタの一つひとつは何の役にも立たない出自?不明のものばかりでしたが、私には本当に宝物の山でした。
ベーゴマやメンコという、ある意味でもっと社会性のある遊びに向かうのは、この後のことだったと思います。

 

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