成城から出版文化の風。商業出版、自費出版、自分史。

第一回テーマ「夏の思い出」

  • HOME »
  • 第一回テーマ「夏の思い出」

「行水」

中島孝雄

小学校に入学したのは昭和二十八(一九五三)年で、戦後の貧しい時代だった。

家にはテレビ、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、エアコンなどの今では当たり前の電気製品はなかった時代。また電話は当然なく、大学二年生すなわち二十歳になるまで、他所からの連絡は隣の家にかけて呼んでもらっていた。家にあったのは扇風機とラジオ程度だったと思う。

また自分の家では風呂はなく、小学校六年までは町内の銭湯通い。幼稚園・小学校の頃は毎日近所の仲間と、学校が終わると家の前の公園でソフトボールやドッジボールをよくしたものだった。母親から六時頃にはもういい加減帰って来るようにと言われていたので、ぎりぎりまで遊んだ。

夏になると、家の小さな庭に「たらい」が置いてあって、母親がガスで湯を沸かし何回も運んできては「たらい」に湯を入れていた。外で遊んだ後は男ばかりの四人兄弟で順番に「たらい」の中で汗を流したが、後になればなるほどドロドロになっていた。しかしながら子供たちにとっては手軽で気持ち良い簡易風呂だった。

日本全体がまだ貧しかった頃で、また自分の家も親父 がサラリーマンで、子供四人を食べさせることで一杯一杯の生活だったと思われる。大きくなり親の苦労が一段とわかってきたような気がする。
あの時代があって今日の自分があったように思われる。

 

「夏の思い出」

 K・Hさん

「夏の思い出」という題だが、この題で文章を作るのは難しい。というのは、私の場合、記憶が形成されるに到らない幼児期の何年かを除いても、八十回ほどの夏を迎え、そして送っており、そのいずれもがそれぞれの思い出につながっているから、選択に迷うのである。また、私の好みからすると、「思い出」よりも「想い出」としたいのだが、

いさかひしたるその日より
爪紅(つまぐれ)の花さきにけり
TINKA ONGO(ティンカオンゴ)の指さきに
さびしと夏のにじむべく

という詩を収めた、抒情小曲集と銘打たれた北原白秋の詩集の書名は、「思ひ出」であるけれども、背表紙には「おもひで」とある
(※ 「爪紅」… 鳳仙花の古称。「TINKAONGO」…小さき令嬢〈筑後柳河語〉、白秋は柳河の出身)。

さて、過ぎ去った多くの夏の、「思い出」というよりも「記憶に残る」夏は、私には国民学校四年生の夏、すなわち一九四五(昭和二十) 年の夏であろう。大日本帝国敗戦の夏である。

当時私は、西伊豆の漁村に母と一緒に縁故を頼って疎開していて、戦争とは無縁のような生活をしていたが(父と姉が護っていた東京の家は、三月の空襲で焼失した)、十歳の子供にも国が滅んだということは、大きな衝撃であった。これを契機として、我が国の体制が全く転換したこと、それに対する大人たちの破廉恥で無反省な豹変と迎合ぶりには、子供ながらも憤りと批判を禁じ得なかったが、そのことはここには書くまい。

このような経験が、私をして、どこか人生を斜めに見て過ごすような人間にさせた。そのきっかけが、一九四五年の夏ではなかったかと今にして思われるのである。

 

「終戦の日に想いを寄せて」

 E・Iさん

八月十五日、今年も終戦記念日がきた。七十二回目である。いつもこの日は、「あの日」のことを想い出す。私は秋田の疎開先で放送を聴いた。小学四年生の子供には意味はわからなかったが、周りの大人たちや先生の言葉や泣いている人たちで、戦争が終わったことを知らされた。

子供心に戦争が終わってすごく嬉しかった。これで家族のいる家に帰れると思った。次の朝、みんなで晴れ晴れとシーツを洗濯しておおっぴらに並べて干したら、昼頃、いきなり機銃掃射で撃たれてしまい、レースのように穴が空いてしまった。今でも目に浮かぶようだ。戦争が終わったのになぜ?

それから二、三日後、学校の帰り、畑の道で機銃掃射に遭った。大慌てで田んぼのあぜ道に逃げ込んで伏せた。今考えても恐ろしい思い出である。子供を撃とうなんて!

戦争は絶対にいやである。小学校三年で家族と離れ、茨城の雨引村へ集団疎開をした。三月十日の空襲で向島の家も焼けてしまい、何もかも失ってしまったが、家族が無事だったのが救いであった。その後、戦況はさらに厳しくなったので、秋田へ移動したのである。秋田では食物がなく、毎日おなかを空かして畑へ行っては、野菜や果物をみんなで盗んで、生で食べて空腹を癒やした。

やっと十一月に東京へ帰れることになり、上野に着いたときには、嬉しさも大きかったが、焼け野原で何もない光景にただただ呆然としていた。迎えに来てくれた父の顔を見たとき、安堵でオイオイ泣いてしまった。こんな想いはもう二度としたくない。
毎年八月になると思い出されます。


◉物語の力
 富田芳和

物で語る「物語」

 「自分史」という言葉は、字面どおり読めば、自分の人生の歴史という意味になります。しかし、何かのきっかけで人生を振り返ることになったとき、よみがえるイメージは、いつも時間の経過どおりに整理されているでしょうか。同窓会で旧友たちと昔話に花を咲かせるとき、子どもや孫たちに、子ども時代の話をするようせがまれたとき、正確な年月日は大きな意味をもつでしょうか。

昔話や思い出話は、まぎれもなく「自分史」なのですが、回顧録や自伝と少しおもむきを異にしています。昔話や思い出話は、厳正な事実を語るものではなく、「おもしろかった」「楽しかった」「つらかった」などという、とらえどころのない情動をテーマにしています。昔話や思い出話は、とかく居酒屋の放談だとか、茶飲み話として、軽く見られることがままありますが、じつは人と人を結びつけるとても大切な役割を果たしています。

 「おもしろかった」「楽しかった」「つらかった」などの、とらえどころのない情動は、それがどんな意味をもつかなどと、細く検証されることはありません。そんなことをしたら酒がまずくなるし、茶はさめてしまいます。そんなことをしなくても、話している仲間は、ひとつの緊密な時空の住人になっています。

友人や家族が会えば、必ず話題になるという話がいくつかあるものです。でも、よくあることですが、「そういえばさあ」と言って、話を始めるだれかがいるものです。昔話、思い出話の新規参入です。新規参入の昔話は、必ずしもみんなが知っている話ではなく、言い出した本人しか知らない話であることもよくあります。それがセンセーショナルな展開が予想されるときは、「じつはさあ」が冒頭の言葉によくなります。

私たちの「思い出の貯蔵庫」には、こうした話が無数に眠っているはずです。貯蔵庫の中で眠っている、何年ものの「思い出」は、ワインと同じように味わってくれるだれかを待っています。何年ものの「思い出」は、個々それぞれの馥郁とした香りをもっています。もし、味わう人がいなければ、貯蔵庫は永遠の無の中に消えていくことになるのでしょう。

私は、「自分史」を書くという行為は、暗い図書館の書棚に、難しい研究書を一冊収めるためというよりも、蜘蛛が巣を張る地下室から、時を経たボトルを見つけ出し、差し出されたみんなのグラスに、命の液体を注ぎわけるようなことではないかな、と考えています。それが人生を語る醍醐味ではないかなと。  

お問い合わせはこちらから TEL 03-6314-5326 受付時間9:00-19:00

成城 街と本と

「言の葉」寄稿文集&「物語の力」

静人舎の書評ブログ「書棚から」

PAGETOP
Copyright © 株式会社 静人舎 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.