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第三回テーマ「思い出の食べ物」

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「あのチャーハン」

K・Nさん

昨年の春、群馬県前橋市在の友人の病気が全快したということで、久々に五人が集まり、横浜市鶴見区生麦にある「キリン横浜工場」を見学した。生麦を選んだのは、「生麦事件」の研究者・浅海武夫さんの「生麦事件参考館」を訪ねる目的もあったからだ。
我ら青春時代に全寮制で修業した仲間は、六十代に入ってから年に二、三回、各地の温泉場を訪ねる旅行をしていたが、七十代に入って一人欠け、二人欠けして年々疎遠になっていった。

その日は横浜に出て、山手辺りをそぞろ歩いた後、元町でウィンドウ・ショッピング、元町から朱雀門に入って「関帝廟」で祈願した。一年に二千万人もの人々が訪れるらしい中華街はいつ行っても人が多い。六百店舗のうち、約半数が中華料理店だという。呼び込みも活発だ。「市場通り」を裏側から入って表通りに出た角の「同發本館」に来たところで、我らは歩くのをやめた。ビールは充分飲んできたので、チャーハンとラーメンを注文。そのチャーハンを一口食べたとき、口の中、胃袋の中よりも、脳に幸福感がいっぱいに広がったような気がした。ウムム……どうしてこんなに美味いのだろう。全く油っけがなくて米粒が一粒一粒軟らかく生きている。こんなに美味いチャーハンはこれまでに食べたことがない。ラーメンも函館で食した塩ラーメンよりもはるかに美味い。仲間も同じようにウマイと言っている。

その夜、ふと目が覚めた。確か十三歳だった六十三年前のこと。五歳年長の次兄はクリーニング屋に勤めていて、初めてもらった給料で私を高松市にある中華料理店「望月」へ連れていってくれた。そのチャーハンを食したとき、「世の中には、こんなに美味いものがあったのか」と感動した。横浜の「同發」で食べたチャーハンは、その味と同じだったのだ。

 

「食いしんぼう」

C・Tさん

メモリードの会社から月刊誌「ありがとう」が届いた。十年ほど前から娘が会員に入っていて、いつでも利用できるのだと言っていたが、私は一度も読んだことがなかった。少々抵抗していたのかもしれない。

しかし八十歳ともなれば、もういいかなと思うようになって初めて本を開いた。十年前といえば、走って走って働き、女家族を養うこと以外、考えることができなかった。

死ぬことがそんなに目出度いのか、本は美しく仕上がっていて笑顔の写真ばかり。その中に、ご法要料理のパンフレットが一枚入っていた。食いしんぼうの私はそれに見入った。〝四季折々の旬の滋味豊かな贅をつくした膳とともに語らいのひとときを……〟と、会席料理の写真が並んでいる。
「ねぇ、ちょっと見て、最近のお葬式はこんなお料理が出るの?」

娘にパンフレットを見せた。

「そうよ、だんだんこういう料理を出すようになったらしいの」
「美味しそうね」
「おばあちゃん、食べたいんでしょう」
「でも私はお棺の中で寝てるから食べられない。悔しいね」
「じゃあ、宴会が始まったら起こしてあげるわ…」
「それもいいね」
「本当におばあちゃんは食いしんぼうね」

娘と私は声をあげて笑った。

 

「思い出の食べ物」

 H・Sさん

母へ。

今、私たちは食べたいものをいつでも口に入れることができるが、私の子供時代は、各行事にしか食べられなかったものがあった。遠足や運動会のとき、母が握ってくれた「お稲荷さん」もそんな私の思い出の食べ物である。甘辛く煮た油揚げに椎茸入りのご飯が詰められ、回りには干ぴょうが巻かれたそれは、店で買うものよりずっしり食べ応えがあり、味付けも「おいしかった」と記憶している。

先週、福井に行く機会があったので、人生初の母オリジナルの「思い出のお稲荷さん」づくりに挑戦した。

レシピに従ったが、最後に油揚げにすし飯を詰める段階で、ご飯の分量が 多くてうまく入らなかった。そこで寸足らずの干ぴょうを油揚げに巻きつけた。北陸本線の列車の中で、それを母に食べてもらった。そして現地でたまたまトウモロコシをいただいた八十八歳のおばあさんへお礼にそれを二つ差し上げた。半世紀を超えて「母のお稲荷さん」が新たな思い出を紡いだ。

 

「バナナジュース」

 H・Iさん

亀田くんあれは何だったのだろう、きみが怒り出してしまった理由は。ぼくには結局理由がわからずじまいでした。
ぼくたちは三人組で、亀田くんとぼく、それと小林くんの三人でいつも遊んでいました。

きみの家は貧乏で、お母さんしかいないで、きみのお母さんはいつも針仕事をしていました。よく三人で野原を駆け回ったり、家の中で木のおもちゃで遊んだりしました。ある日のこと、きみと小林くんは急にぼくによそよそしくなり、どうしてだかわからないぼくはきみにこう聞いたのです「なんであそんでくれなくなったの、ぼくと?」きみはこう答えました。「今井田くん、自分の胸にきいてみるといいよ」子供の口から出たことばですがまるで大人に言われたようで、ぼくはズシンと胸が小さくなってしまいました。いったいぼくは何をしたのでしょう? 何か悪いことを言ってしまったのでしょうか?

今でもそうですが子供のぼくはくったくのないフツーの子で、心に亀田くんのことばが引っかかり、小林くんの冷たい表情がずっと残っていましたが、そのまま家の近くのパーラー、セカンド明治に行きました。明治座の近くにあるパーラーだったので「セカンド明治」という名前だったのです。そこに行くとおじさんたちがいつもぼくにやさしくしてくれ、その日はとくに、バナナジュースという飲みものをつくってぼくに飲ませてくれました。ほかのお客さんにはないしょでぼくだけにです。

何ておいしい飲みものなんでしょう! はじめての 味にぼくはびっくりしてしまいました。これを亀田くんや小林くんと飲めたらどんなにうれしいだろうとも思いました。でもそれはかないません。できない夢になってしまいました。

今でも亀田くんになぜ怒ったのか聞いてみたくて仕方ありません。バナナジュースを亀田くんと、そしてできたら小林くんともいっしょに飲めたらどんなに幸せかと思います。理由をちゃんと聞いて、ぼくは亀田くんにちゃんとあやまりたいと思います。きっとぼくはことばで亀田くんの貧乏やお母さんのことを傷つけてしまったのですネ、ごめんね、亀田くん。許してください。

 

「聖なる甘美なアイスティー」

 S・Bさん

アメリカ育ちだとういう新しい神父様は、それまで知っていた厳格な神父たちとは全然違い、とにかく快活で、信者たちの目の前で大好きなコカコーラをラッパ飲みしたり、人差し指をほっぺたの内側ではじいて「ポン」と大きい音を出したり、蟻の街の廃品回収活動にはつなぎ姿でオートバイに跨って出かけたりで、大人の信者たちは最初は様子見していたらしいが、子どもたちの心をあっというまにつかんでしまった。作詞作曲の才があった神父さまは、着任して二、三年すると、教会に通う小学生を中心に少年少女合唱団を設立した。

私も姉と一緒に形ばかりの試験を受けて入団し、教会付属の幼稚園のホールで神父様のちょっと変わった指揮に合わせて歌の練習に励むのが日曜の午後の習慣となった。

ある夏の暑い日、たぶん私は十歳前後だったと思うが、歌の練習中に初めて貧血を起こして倒れてしまった。神父様は指揮を中断して私を抱きかかえ、司祭館の戸を開け、あがってすぐの居間のソファに寝かせてくれた。そして、冷蔵庫を開き、ピッチャーからガラスのコップにコトコトついだ飲み物を持ってきてくれた。その琥珀色の飲み物を麦茶だとばかり思って口に含んだ私はとてもびっくりした。甘くて香りの いい冷たい紅茶だったから。紅茶といえば熱い紅茶しか知らなかった。それは、そんな言葉を当時の私は知らなかっただろうけれども、今思うとまさしく「甘美な」味だったのだと思う。私が飲み終えたコップをさげて戻ってきた神父様は、私の頭を両手で抱えると、「ゆっくりお休み」と言って私の額にキスをして出て行った。

ひとり司祭館に残った私は、みんなの練習が終わるまで結構な時間があったと思うが、貧血でもうろうとしながらもとても眠るどころではないほど混乱していた。

まず、神父さまの生活の場である司祭館というのは、神父の身の回りの世話をする年輩の女性信者一人を除いて、誰も入れない場所だった。そこに通されたこと。第二に甘美なアイスティー。そして第三は、神父様から受けた額へのキス。帰宅して、母には、貧血のことと、冷たい紅茶が美味しかったことは一大事として話したものの、第三の件についてはなんとなく話さなかった。

中学に入り、合唱団を退団して間もなく、神父様はバイクで移動中に心臓発作を起こして急死された。まだ四十代だった。そして私は、高校を終えたころから、私なりに思うところがあり教会から遠ざかった。

いま、夏の冷蔵庫には麦茶以外に「午後の紅茶」や「低糖コーヒー」のペットボトルが並ぶようになった。夕方、あるいは夜寝る前、どれにしよう、と一瞬迷ってからアイスティーを注いで口に含むと、なんともいえない深いためいきが出るときがある。

 

「白いご飯」

 C・Tさん

昭和二十年の三月頃、寒い朝だった。私は真っ暗な駅の片隅で一人毛糸のマフラーで顔を覆い、父の帰りを待っていた。

その頃、戦争は激しくなるばかりで、毎日、空襲警報のサイレンが鳴っていた。女学校の体育館の屋根は空襲で穴だらけで、学校は休校になり、月一回登校日があるだけだった。私は十五歳で三年生だった。姉たちは勤めに行っていた。だから私が一番電車で帰ってくる父を迎えに行くことになった。

周囲を見てそっと確かめた。今朝は私服刑事はいないらしい。父は田舎の実家へお米をもらいに行っているのだ、見つかると没収され、連行されてしまう。
階段の上から下りてくる父の姿を見つけた。大風呂敷を二段重ねに背負ってゆっくり下りてくる父に向かって手を振った。家に着くと母や姉たちが胸に両手を合わせて小さな声で「お父さんお帰り、ありがとう」と言って出迎えた。

母はさっそくご飯を炊いてお膳拵えをしてくれる。その時父が玄関の鍵をかけ灯りが外に漏れないように襖を閉めるように言った。食糧不足で配給制度の時代に、朝から白いご飯を食べているのが見つかると大変なことになる。

お膳の上に〝メバル〟の煮付け、みそ汁、お漬物が並び、そして炊きたての白いご飯がお櫃の中で湯気を上げていた。茶碗にふんわり盛られた白いご飯は光っていた。

皆は無言のまま箸を動かした。

あれから七十年。孫たちも各々家庭を持ち、今は娘と私、二人の生活になっている。

毎日ご飯を炊くこともなくなり、二日か三日目にご飯を炊くと、やはり白いご飯はおいしい。そのご飯を食べると、必ずあの日を思い出す。


◉物語の力
 富田芳和

ごちそう

「朝起きる前に寝床の中で、今 日は朝昼晩何を食べるか考えるの がよい」

以前新聞の記事で読んだ、だれ にでも簡単にできる認知症対策の ひとつです。自分史を書くことは、 認知症の予防にたいへん役に立つ ということはよく言われることで すが、私はとりわけ食べものにつ いての思い出を書くことは、非常 に脳を活性化させると信じていま す。役に立つかどうかという難し い話はともかく、食べものの話を することはなんといっても楽しい ですよね。

料理のレシピノートをそれぞれ 工夫されて作っていらっしゃる方 がいます。これまでの人生で巡り 合った食べものについても、思い 出ノートをお作りになることを提 案いたします。

まず、思いつくままに食べもの の名前を列挙してみてください。 その一つ一つについて、いつ、だ れと、どんな状況で食べたか、ど んな印象が残っているか、書き加 えてみましょう。はじめはご自身 で決めたカルテ式の紙に一項目一 枚に書いていくのをお薦めしま す。加筆するうちに、その一枚一 枚が長短さまざまな物語を紡ぎだ していくはずです。それをノート に清書してみましょう。単なる食 べもの談義に終わらない、人も登 場する、懐かしい風景も広がる、 人生の歴史へとふくらんでいくの ではないでしょうか。

さて、私のノートから一話をご 披露させていただきます。

私は食べることが大好きで、和 食だろうとエスニックだろうと、 美味しいものには目がありませ ん。ところが、自分でもなぞだっ た奇妙なクセ?というか振る舞い があります。

たとえば友人と居酒屋とか中華 料理店とかに食べに行ったとしま す。注文した料理が運ばれてきて、 卓の上は華やかになります。楽 しい会話が盛り上がります。私は ビールか何かを飲んでいます。友 人たちは盛んに箸をのばして、旺 盛に食欲を満たしていきます。

ところが、私はどの料理にもな かなか手をつけません。心配に なっただれかが「どうしたんだ? 食べないの」と聞いてくれます。 「お酒を飲むとあまり、食べない ほうなんだよ」とわけのわから ない答えをしてしまいます。潔 癖症でもありません。好き嫌い はありません。体調は万全です。 この宴はだれかのおごりではな いので、遠慮しているわけでも ありません。

私の奇妙な振る舞いの理由は、 「食べものノート」を書いたこと によって、最近はじめて解明し、 びっくりしました。なぞの解明 は遠い昔にさかのぼらなければ なりませんが、紙数が尽きたの で、ここでひとまず箸を置き、 いや筆を擱き、次回に続くとさ せていただきます。

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