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第十四回テーマ「戦争と私」

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「戦死した父の人生の語り部になりたい」

渡辺美佐子

赤紙一枚で兵隊にとられた私の父は昭和二十一年一月二十一日、満州チチハルの関東第26 陸軍病院で戦病死しました(享年三十五) 。死因は栄養失調症兼発診チフス。

戦争は、国家が始め、実際は一人ひとりの兵士の鉄砲、ゼロ戦などの戦闘機、特攻隊、細菌戦などが武器となり、戦場では父がそうであったように個人の死が待ち受けているものです。私は生きている限り、父を忘れることはできません。大切なことは父が戦病死したことを私の子どもや孫たちに伝え、次の世代に継承することであると思っています。父は三十五年間をどのように生きてきたのか、その人生の全体像を語り伝えたい。父は、まっとうに生きて子どもたちを育てる父親としての醍醐味を体感したかっただろうと思うのです。戦地から届いた父の手紙は、家族への愛情が深く滲んだものでした。家族を養い、子どもたちへ教育を施し、孫と語らい、母との楽しい老後を夢見たのではないでしょうか。

私が父のためにしてあげたいことは、残された数少ない父の写真と手紙の言葉を抽出して、そこから父の人生を浮き彫りにし、家族みんなで振り返る機会をつくるということです。父が送った短い人生の語り部となれるのは家族です。まずは自分の足元から子や孫たちに伝えていきたいのです。

戦争とはどんなものだったのか、家族にとってどうだったのか、父の兄弟にとってどうだったのか、戦争の歴史を受け止めるとは、ありのままの歴史を受けとるとはどういうことなのか……家族で共有できるような場の設定をしていきたいと思っています。そして世に問うこともしていきたい。孫たちが安心して平和な時代を生きていけるように、何をしたらよいのか、語り会えたらいいと思うのです。

 

「記憶に残る軍歌と戦時歌謡」

松山 一

昭和五年出生と同時に十五年にわたる長い戦争の時 代が始まった。昭和六年に満州事変、同十二年に日中 戦争、続いて同十六年には太平洋戦争が勃発し、昭和 二十年の終戦まで戦時色一色になり、幼少期を通し一 貫して忠君愛国の教育を受けた。戦況が悪化し日本本 土にも敵機が来襲し、ついには三月十日の大空襲によ り東京の大半が焦土と化した。当時十六歳の自分は、 弟の手を引いて恐怖に震えながら逃げ回るばかりだっ た。一夜にして焼け野原の廃墟になり、凄惨な光景は まさに生きながら地獄を見たようであった。戦争につ いては語るに忍びない。

そこで見方を変えて、戦時中、国民の士気を鼓舞し、 国を護る使命感、責任感を煽るために作られた多くの 軍歌、戦時歌謡、小国民の愛唱歌の中からいくつか印 象に残る歌を取り上げてみた。とはいえ、日中戦争の 始まるまでは、幼児期で確たる記憶はなく、また戦争 も遠い外地での出来事程度の感覚で、世の中は大正ロ マンの夢を謳歌し、銀座はモガ、モボが闊歩し、浅草 オペラも全盛を極めていた。

一方、日清、日露の戦勝と英雄を称え、「水師営の 会見」「広瀬中佐」「勇敢なる水兵」「敵は幾万」「婦人 従軍歌」「軍艦行進曲」などが歌われ、満州事変では「戦 友」「雪の進軍」などが街角に流れていた。しかしこ の軍歌は、個人の感傷に溺れ、戦意を喪失するとして、 その後、歌唱禁止になった。

昭和十一年、小学校(後に国民学校)の入学時、一 年国語読本の冒頭は「ススメススメヘイタイススメ」 だった。翌年、日中戦争に突入すると、「愛国行進曲」「出 征兵士を送る歌」が流行り、小国民は「兵隊さんよ有 難う」「我は海の子」「お山の杉の子」「めんこい仔馬」 をよく口ずさんだ。歌詞の終わりは、「成長したら国 のために尽くす」と結んでいた。戦時歌謡では、「上 海の花売り娘」「何日君再来」「上海ブルース」「隣組」 「月月火水木金金」「勝利の日まで」「同期の桜」「ラバ ウル航空隊」「空の神兵」「若鷲のうた」「加藤隼航空隊」 「燃ゆる大空」「暁に祈る」などなど……。

敗色が濃くなり、北のアッツ島玉砕、南のサイパン 島同胞自決のニュースが伝わると、鎮魂歌ともいえる 「海ゆかば」が流れ、その後は米軍の圧倒的戦力に押 され、本土決戦を覚悟したが、原爆投下により戦争は 終結した。今では忘れられた戦時歌謡だが、昭和初期 の激動期を過ごした生き証人として留めておきたい。

 

「平和の大切さ」

室田城治

昭和十八年、朝鮮半島(現韓国) から家族と下関に引き揚げた。当時私は六歳、小学校六年生であったが、翌年には毎日、空襲警報が発令され、登校することはできなかった。上空にはB29 が飛行機雲をつくりながら青空の中を編隊を組んで悠々と飛んでいる毎日だった。地上からこのB29 を見上げ、子供なりにすごいと思い、怖いとは思わなかった。

しかし母親と食料を求めて買い出しの途中、山道で艦載機の機銃掃射を受け、藪の中に逃げ込んだが、弾が自分に当たったように思える衝撃だった。路上の馬車の馬は、この銃撃で即死していた。

来る日も来る日も食料難は続き、米、麦などは入手できず、わずかな野菜類、なかでも芋の蔓などは貴重な食べ物であった。しかし調味料はなく、海水を貰って味付け、なんともいえぬ苦さのものを口にしていた。道端に生っている渋が除かれる前の渋柿なども口にし、蛙、泥鰌、川蟹、蜂の巣などは貴重な食料であった。

同居していた祖父が寝込み、医者に往診に来てもらった。医者は黒い大きな革のカバンを持参したが、 中身は聴診器しかなく、この医者はミイラのように痩せていた。仲の良かった友人が栄養失調のため他界、その姿もまるでミイラのようだった。私は自分を確かめるため、久しぶりに鏡を見た。凹んだ目、こけた頰、胸は肋骨が見え、他界した友人と同様、ミイラの状態であった。この自分をしげしげと見つめ、なんとしても生きようと食べ物を探すことにより努力する毎日になった。

食料と同様に靴などはなく、登校時だけ草鞋(わらじ) を履いていたが、そのほかの時間は裸足で過ごし、足の裏は象の皮のように硬くなっていた。自分でこの貴重な草鞋を作ることも試みたが、出来上がったものは左右の大きさ、形、硬さなど、同一にはできなかった。でも自分で作った草鞋は宝物として大切に使っていた。

これら悲惨な状態が長く続いたが、なぜか悲しいとか苦しいとかは思わず、毎日生きるために必死で食料を求めて動き回っていた。戦争は、一般の人々がこのように苦しむことにつながり、良いことはなく、破壊と苦しみだけをつくり出すもので、何も良いことはない。多少の不満があっても、戦争のない平和な生活、これが最も大切だ。

 

「夜の銭勘定」

C・T

父の小さな工場(セルロイド製品製造) が、戦争が激しくなり材料は禁止となり廃業せざるを得なくなった。父はどこの経路かは知らないが、夜店や祭りのある日に大きな荷物を背負い商いに行き、そして夜遅く返ってくる。私たちが夕食を済ませ寝ていると、「そら、やるぞ集まれ」と号令で起こされる。皆は一斉に起きて、座布団を円形に並べ、灯りが洩れないように電気の黒いカバーをできるだけ下に下ろす。そして真ん中に座布団を一枚置いて座る。パンパンに膨らんだ腹巻をはずしながらヨイショと声を出して父が座り、腹巻を真ん中の座布団の上にザーッと拡げる。お銭(かね)がお賽銭のように山をつくる。皆でそれを壱銭、五銭、拾銭と分けて小山をつくり勘定する。私はちらっと見た、いちばん上の姉が素早く、何銭かわからないが、一枚ふとんの下に隠すのを。その夜はゲームでもしているように楽しい行事になっていた。

一週間に一度くらいの割合でそんな日がある。そして私たちは小遣いをもらうのだ。母には残り全額渡しているらしい。父のステテコの上の腹巻がペシャンコ になる。私はまたのその日が待ち遠しかった。早速翌日には御馳走が並ぶのだった。我が家でこんな楽しいことをしているのは禁句になっていて、隣近所のだれにも知られないように気をつけていた。戦争中なのに。

戦争はどんどん悪いほうに進み、空襲はたびたびやってくるようになった。父の商いもできなくなり、大阪から父の実家の岡山へ疎開することになった。私は親戚の紹介で会社勤めをすることができた。学校どころではなかったのだ。父は働かなくなり、毎日を無為に過ごしていた。

そんなある日、脳出血で倒れ、寝たきりの体になってしまった。そして半年後、母に背中をさすってもらいながら逝ってしまった。

 

「『戦争を知らない子供たち』だった私たち」

馬場先智明(「言の葉」の風−− ⑭より)

私の中学生時代、「戦争を知らない子どもたち」(作詞:北山修、作曲:杉田二郎)という反戦フォークソングが大ヒットしました。ベトナム戦争がまだ続いていた頃です。この歌が大好きだった私は友人たちとよく歌ったものです。もちろん世界情勢や政治にはほとんど無知な下町の一人の子どもとして。数年後、大学に進んだ私は新聞会のサークルに入りました。ジャーナリズムやマスコミ志望の学生が多くいるところで、「ベ平連」などベトナム反戦運動に関わった先輩も何人かいました。

サークルに入って間もなく、新歓(新入生歓迎)コンパがあり、酒の席で「何か歌え」と先輩からご指名された私が迷わず歌ったのがこの歌でした。

♪ 戦争が終わって 僕等は生まれた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら〜

といった歌で、反戦歌といわれたわりには、プロテストソングにありがちな悲壮感や告発調など微塵も感じられない、なんとも明るく楽しいリズミカルな曲調でした。ところがそれを聴いていた先輩の一人から「おいおい、そんな歌やめてくれよ!」と待ったが入りました。顰蹙を買ったのです。当時の私にはその先輩の真意を測りかねましたが、場の空気は彼を支持していました。

景気に踊る八〇年代に差し掛かる頃で、日本中が一種異様な浮かれた狂騒状態にどっぷり浸かっていました。この歌もそんな空気のなかの産物でした。「反戦」という衣を一見まといながらも、中身は平和を満身で享受する自分たちの自己肯定で、戦争を知らなくて何が悪いんですか? 平和でいいじゃないですか、という無恥な開き直りを表白した歌だったわけです。

ともあれ、この新歓コンパでの一幕は、私の「恥ずかしい思い出」のワースト10に必ず入る代物です。


◉物語の力
 富田芳和

凍結した時間

十五年ほど前、日本画家・平山郁夫さんの本を作るために、彼のある空白の時間を詳しく取材したことがありました。昭和二十年八月六日の広島での被爆は、後の絵画制作の原点となった体験でしたが、その日何が起きたのかということはそれまで余り語られたことがありませんでした。平山さんは八月六日の体験を、低くしゃがれた声で途切れることなく語り続けました。

十五歳の彼は、勤労動員された被服工廠の一室で、同級生たちと作業がはじまるのを待機していました。空襲警報が解除された直後のこと、平山さんと友達が空を見るために、開け放された大きな窓によじのぼりました。すると早朝の真っ青な空のかなたに、ゆるゆると小さな落下傘が降りてきます。二人は窓枠から降りて、「おーい、何か降りてきたぞ」とみんなに伝えようとします。その時、強烈な光が部屋に満ちたと思ったら、とてつもない強風が窓ガラスを砕き、何も見えなくなり音も聞こえなくなりました。時間が経って意識を取り戻し外に出ると、ふらふらと街をさまよいます。線路に出るとたまたまやってきた貨物列車に飛び乗り、二日かけて郷里の生口島にたどりつきます。それから家で魂の抜けたような時間を何週間も過ごしました。

平山さんは、たどりつくまでに見た街の光景を鮮明に記憶していて、抑揚のない淡々とした口調で語り続けました。そこにはひとかけらの感情も交えていなかったので、筆記する私の筆は凍りつき、テープレコーダーが声を拾ってくれるのに任せていました。

窓の外をいっしょに見た平山さんの友人にも詳しく取材をしました。彼が最後に言った言葉が忘れられません。「その日のことを今思い出しても、怖いとか、苦しいとか、悲しいとかの気持ちがまるで湧いてこないのです」

小説家・原民喜は「夏の花」の冒頭で、広島で体験したその時を書いています。「それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、目の前に暗闇がすべり落ちた」その後に続く、街を彷徨したときの描写にも感情は混じりません。

感情を失うということほど、聞く者に強いインパクトを与える体験を私は知りません。匂いも色も音も失った時間は、永遠に凍結されたまま、だれも手を触れずに未来へと伝えていかなければならないのだと思います。


 

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