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第四回テーマ「生まれて初めて見た風景」

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「奇妙な心象風景」

K・Hさん

まだ目も開かない生まれたばかりの幼児が、初めて感じるのは、母の懐に抱かれての暖かさと安心感であろう。そして、目が見えるようになって、初めて見るのは、乳を与えてくれる慈愛に満ちた母の顔であろう。

私には、嬰児が初めて見るはずの母の顔の記憶がない。母のない子というのではなく、私の生まれたころの母は病弱であったために、私は母とは異なる女の人に育てられた。どういうわけか、私にはその女性の顔をまったく思いだすことができない。その時分の私が見た初めての風景というものは、次のようないささか奇妙な心象風景なのである。

私はわが家ではない家にいる。周りには玩具がたくさんあって、他所の子がそれで遊んでいる。その玩具は、母と離れて暮らす私を哀れに思う父が買い与えてくれたものであろう。けれども、まだ幼い私は、それらの玩具で満足に遊ぶこともできないとみえて、他所の子が遊んでいるのをただ座って見ているのである。ここが自分の家ではないこと、傍らにいる女性が母ではないこともわかっているのだが、その年頃でこのような認識があるというのも面妖なことである。多分、このような心象は、後になって聞かされたことにより形成されたものであろうが、いつも他所の子が遊びに来ていたということまで、親が話してくれたことに含まれていたのだろうか。

乳母ともいうべき女性と別れて家に帰ったことについても、記憶が定かではない。いつのまにかわが家にいて、両親と一緒なのである。その後の私は、母の愛に包まれて育ったことはいうまでもない。

みどり子の頭巾眉深きいとほしみ

これは、佐藤春夫が『美の世界(朝日新聞社)で選んでいる蕪村の句である。佐藤の「解」では、蕪村が 子煩悩であったことから、自分の女児に眉深く頭巾をかぶせて、その子へのいとおしみの気持ちを歌っている、としているのだが、同書の自序で佐藤は、各詩歌に付したのは自分なりの解なのだから、読者も自由に解されたうえで心ゆくまで味わわれたい、と述べているので、それにしたがって私の解を述べれば、この句は、母親がみどり子をいとおしんで眉が隠れるほどに深く頭巾を着せかけた、それを眺めた父親蕪村がその母親の慈しみの心をうけとめて、このように詠んだ句ではないかと思われる。

いずれにせよ、母のわが子に対する慈愛の心は広く深い。

白隠禅師は、絵をよく描かれた。その絵は天真爛漫と評すべきものだが、同師の描かれた観音菩薩の絵には、「大慈大悲如母」という言葉が添えられている。

 

「両親と歩いた土の道」

H・Sさん


これが私の一番古い風景なのか? 両親の手を握りしめながら、土の上を一歩一歩、歩みを進めている二歳くらいの自分の姿が浮かんできた。時は早春、寒さが残る曇り空。私の前には柔らかな焦げ茶色の土が広がっていた。風景画を描きながら「春よ来い、早く来い、歩き始めたみよちゃんが〜」の童謡が聞こえてくるような気がした。

それから何十年も経過し、私はある時から、土の上を歩くことが好きになった。柔らかな土が土踏まずに触れた時の心地良さは、仕事の疲れを癒やした。職場のリフレッシュ休暇で英国の田園を歩いていた時、「幸福感」を味わった。

そして今、「船橋小径の会」で土の径を残すボランティア活動を続け、その径をおぼつかない足取りとなった母の手を取り散歩している。黙々と手をつなぎながら歩いている母と私。お互い無意識に過去の記憶に思いを馳せているのかもしれない。

 

「母のおなか」

 Y・Tさん
 
弟とは四つ違いだから、ぼくが四歳のときのこと。母とぼくは、ぼくたちの家ではない大きな家で暮らしている。少し怖くてあまり遊んでもくれない祖母がいて、やさしいけれどもめったに階下に降りてこない祖父がいた。父はほとんど帰ってこない。

大きな座敷があって、天井から薄暗い電球がひとつだけ。部屋の隅にいつもぼーっとした影があり、見上げると天井の染みが不気味な顔で笑いかけてくる。

それでもぼくが眠るまで、隣に母が添い寝をしていれば平気だった。ある夜、ぼくの隣から母が消えた。ぼくは泣きじゃくりながら、まだ起きていた祖母の部屋へ行き、背中にしがみつくと、「男の子は泣くんじゃありません」ときつくしかられた。

翌日、お手伝いさんたちがこそこそと母の話をしている。母は包丁でお腹を真っ二つに切られたというのである。ぼくには間違いなくそう聞こえた。

その夜から怖い部屋に一人で寝かされ、ぼくはずっと泣いていた。でもだれも来てくれない。

目をつむると、胴体で二つに分かれた母が夜の空をもう帰れない遠くの方へと飛んでいく。怖い夢だった。

母は何日かたって、赤ん坊といっしょに帰ってきた。

そこからまた記憶はとぎれてしまっている。

 

「記憶に残るなつかしい風景」

 H・Mさん

中央区銀座にほど近く、築地明石町と隅田川の対岸佃島を結ぶ「佃の渡し」が昭和三十九年東京五輪開催の二か月前の八月、橋の渡り初めの日、江戸時代から続いた三二〇年の歴史を多くの人に惜しまれつつ静かにその役目を終えた。

隅田川の河口にある佃島は、徳川家康の江戸開府の時、縁故ある大坂摂津国佃村の漁民を住まわせたことから始まり、佃煮の発祥の地でもある。その後、島の北側に石川島造船所が建ち、大型船の建造や進水式など活気に満ち、佃島に向かう曳船渡船として人と自転車を乗せて頻繁に運行され、昭和三十年頃は、一日七十往復を数えるようになった。

私は佃島の対岸、鉄砲洲(中央区湊)に昭和五年に生まれた。家康入府当時、鉄砲の形をした洲があったことと、ここで鉄砲の試射が行われていたことから名付けられたといわれる。中学、高校の六年間、現在の江東区にある学校へ毎日、佃の渡しを利用して通学した。戦時中で、国防服で身を固め、船を待つ間に足にゲートルを巻きつけていた。

渡船場から動いている船への飛び乗りや飛び降りを得意になって友達と競い合った。帰りが遅くなると、対岸の聖路加病院の夜景が川面に揺れ、夜の空気が引き締まるような静寂な風景が頭に浮かぶ。

今から五十年前まで蒸気船に曳かれゆったりと渡った佃島も、今では東京メトロが隅田川の下を一瞬に通り過ぎ、佃大橋をひっきりなしに車が行き交い、石川島造船所跡地には大川端リバーシティーの高層マンションが建ち並び、昔の面影は全くなくなったが、わずかに橋のたもとにある「佃島渡船」の石碑がかつての良き情景を思い出させてくれる。

 

「真っ赤に燃えていた高松市」

 K・Nさん


何がなんだかわけがわからない……あまりの喧騒に、 目が覚めた。母は私を抱きかかえて超特急でここまで来たようだ。平池の土手の上には、町中の人が集まっていて騒いでいる。寝ぼけの私は、お祭りなのかなぁと思った。だが、何かただ事ではなさそうだぞ。みんな六キロ前方を見ている。これはとんでもない事態が起こったのだぞ。寝ぼけ眼で私も見た……暗闇の中で真っ赤に燃え盛る高松市の光景を、あれが大火事というものらしい。暗色の中に赤色のコンビネーションは「綺麗」だなぁとさえ感じていた。

昭和二十年七月四日、午前一時頃、米軍爆撃機B29 が焼夷弾を投下、高松市は焼き尽くされた。三歳八か月の、私の初めての記憶。あの光景の事実を、私はかなり後になって知ることになった。付き合い酒の席で「空襲」が話題になり、徳島市出身で私より年長の永井健司さん(デザイナー)が、「B29 が真夜中に松山、高松、徳島と、順番に焼夷弾を落としていったのだ」と言われた。

後日、調べてみた。徳島市は昭和二十年三月十七日、B29 一機が初飛来して油脂焼夷弾を十数発投下。以降、六月一日、五日、七日、十五日、二十二日、二十六日に飛来、七月四日には午前一時頃から二時間三十分にわたってB29 約百機が飛来、七十ポンド油脂焼夷弾と四ポンドエレクトロン焼夷弾を投下。市街の六二%が焼失、死者九八四人、負傷者約二千人のうち、後日、相当数が死亡。七月二十四日、三十日と続き、計十回空襲を受けている。
愛媛県は主要都市が七回、高知県は四十九回空襲され、被害を受けた建物、船舶、山林、死者ともに四国で最大であり、最も被害が少なかったのは香川県だった。

戦争は絶対に反対だ。自分は語り部でもありたいと心に誓った。

 

「山並みの向こうに上がる太陽」

 Y・Kさん

幼い時分、私は祖父に可愛がられて育った。

その祖父と日の出を拝むことが初めての思い出される風景のような気がする。

山並みの向こうのうすぐらい薄墨のような空が赤くなり夜明けが始まる。オレンジ色のような赤い太陽が少しずつ出てきて、真赤な太陽になるが時間が経つにつれて空に昇るともうまぶしくて真正面に眺めることができなくなる。

そんな夢をよく見たことも思い出す。

戦後、小学校三年生の頃、ギリシャ神話を読んだ。「太陽と大地が結婚してさまざまな神様が生まれた。神々の王ゼウスが、プロメテウスとエピメテウスの二人の兄弟の神様に動物をつくらせ、そのあとに男の人間をつくらせた。動物等には、馬には速く走る脚を、蛇には毒を、鳥には空を飛ぶ翼をと、いろんなものを与えた後だったので、人間には何を与えようかと考えた末、火を与えようと思いついた。ゼウスは、人間に火だけは与えてはいけないと厳しく言いわたしていたにもかかわらず、プロメテウスは太陽の火をウイキョウという筒に盗み移して人間の男に与えてしまった。

ゼウスはなぜ人間の男に火を与えてはいけないと厳しく言ったのか。それは、火を与えられた人間は、きっと神を侮るだろうから……と。

その後、プロメテウスは罰として岩山に磔(はりつけ) にされた。

そして一羽の鷲が、磔にされたプロメテウスの肝臓を咬み、えぐり食べるのだった。プロメテウスは神ゆえ、明くる日は元どおりの肝臓に戻る。それが繰り返されて、三万年も続いた」

このギリシャ神話を知ったとき、私は、ローマ以前のギリシャ時代の人々の生活や文化、哲学をはじめ、数学、文学、芸術等が知りたいと思った。

私の祖父は長崎で被爆し、失明して亡くなった。それは私が中学三年の冬の日だった。私は祖父の杖だった。
今、世界中がエネルギー問題をかかえ、解決できないでいる。
三千年も昔から「火」のことについて神話に記されていたことに驚いた。

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