関東大震災時の日記が出てきた
今から15年くらい前だったか、ご近所のAさん宅に本の買取りにお伺いしたときのこと。理工系、なかでも化学関係の専門書が多かったように記憶している。店に戻って買い取った本の束をほどくと、専門書の間に、小さくて薄い新書サイズの箱入り本が3冊まぎれこんでいることに気づいた。
なんだろう? と思って手に取って見ると、箱の表にそれぞれ、
「POKET DIARY 1923 大正十二年 英文懷中日記」 博文舘發行」
「1925 POKET DIARY 大正十四年 ポケット日記 B號 博文舘」
「1926 POKET DIARY 大正十五年 英文懷中日記 博文舘」
と印刷された、イラストもデザインも少し異なる日記帳だった。
大正12年といえば、関東大震災の年だ。
9月1日午前11時58分に発生したマグニチュード7.9の大地震で、関東一円で約340万人の被災者(内10万人弱が死亡)を出したのはご存じのとおり。
日記の文面をパッと見たところ、非常に細かい几帳面な文字でビッシリ埋め尽くされている。日記の持ち主(仮にUさんとしておく)は、毎日の日記つけを欠かさない生真面目なタイプとお見受けした。ならば震災当日の日記も残っているのではないだろうか、と興味が湧いて繰ってみた。
ところが手帳の丁合いがおかしく、所々頁の順番が狂っている。被災時の混乱(避難?)でバラバラになった手帳を、その後、修復したのだろうか、それとも元から乱丁だったのか……と思いながらも、頁を繰る指先は震災当日の9月1日を探していた。地震発生の前に、もし書いているとしたらどんなふうに書いているのだろう、そして震災後の様子が書いてあれば読んでみたい……その一点に私の興味は向かった。
あった! 9月1日の記述が。
「朝より雨あり。風さへ加はりて、二百十日の暴○○見えたり。前日の庭球の疲のあるありて、懈き上に病あり。」
地震発生は午前11時58分だから、その前に、この2行を書いたところで激震に見舞われたのだろうか。他の頁を見ると、だいたいどこも1日8行分の欄が1文字の空きもないほど目一杯書かれているから、そう推測するのが妥当だろう。
ところが、というか、当然というか、2日以降は、しばらく空白の頁が続き、22日になって震災後初の文面がようやく現れる。
Uさんも当然被災しているはずなので、ゆっくり日記をつけている状況にはなく、日記をつけられる生活に復するまで、ほぼ3週間かかったということだろう。
その22日の日記。
「起くるも時を知らず。あかるむにて之を知る。空に○○多きはよし。洗面もなさず。口もそゝがず、思のみは、原人に近し。勉学固より、成るに○ず。雨或いは降り或いは、止みて、心、定らざるを、和ふ如し。午後、○職場に赴くとありて、九段まで持を持ちて還る。人未、歩む多けれども、人心、なかなかに活気ある如く、恢後、案外に○ならむ趣、目に見えたり。但、物姿の設備の旧に復するには時あらんも、取引のみは、迅速に、刻々に、すゝむ如く思ほゆ。」
同23日。
「今日も小屋住いを重ねたり。十月よりの就職も、おぼつかなき如し。勉学もなさずあれば全く徒食なり。食の足るは知るも、あてもなく拠るべきものにもあらず。自ら活を立てざるべからざるなり。而も、司法官たらんには、なほ、一年月あり。又、之が為めには同年月の準備を要す。さらば、自活をなしつゝ勉学をなさざるべからず。是蓋、一般子弟のとり居たる途なるべし。今や、一遍の学業の終へたる○、かかる途に入るは、寧ろ当然なるべし。○成むは、未、恒心なきなり。定れる處世○○なきなり。」
同24日。
「夜半も寒きに、今日は、前日より雨しきりなり。食を○ふるに、すでに、時すぐ。借家の人々の惨の究りて、父の決意を促すあり。傍、父、駒澤行を思ひ立ちて、午近く、出で立ちたり。午食の○に、隣より贈物あり。午後、雨、益々盛にして、浸水、屋内にあり。而も、なさん術もなく、唯、籠もりて、書に読み入る。風雨止まず。思にも○くるに、我が性の、生存競争をなすに適はざるを知りたり。夜半に到り風雨益々甚しく、浸水、刻々に増せるも事なし。」
となっていて、27日まで書き続けられている。23日の日記に「司法官たらんには、なほ、一年あり」とあるから、Uさんは、司法試験を合格して任官を待つ身の司法修習生だったのかもしれない。記述からは、仮住まいをしながら「徒食」をしつつ勉学を続けるための自活を模索する苦しい心の内が伝わってくるようだ。
このあと(乱丁のためか)頁が飛んで、11月、12月の後ろに、9月最後の頁(28〜30日)が来る。
その28日を見ると、
「早くより外出をと心かけしに、曇れる空より雨頻なり。気なえて家居と定めつゝ、唯、身体の休養に過さんとて、土の石等を玩ぶ。永井壯吉氏みゆるあり。復興院への周旋の話をえたり。午後に到りて雨止みたるも、空は明ならず。夕近く庭球をなさんとあるに加はりて、ゆく。久振にてラケットを手にし、稍快あり。戻りて夕食美なり。ただ少しく寒気をおぼえて、患を思へり。夜、「テニス」によみ入りて、一時程をすごし、疲れて寝ぬ。夜半、汗甚しく出づ。」
とあり、私の目は、日記の3行目にあった「永井壯吉」に吸い寄せられた。
もしかして永井荷風のことだろうか。荷風の本名は「壯吉」である。Uさん(あるいはUさんの父親)と荷風は知り合いだったのだろうか、と考えたら、俄然、ワクワクしてきた。そうだ、荷風の日記『断腸亭日乗』で確かめてみよう。早速、書棚にあった『断腸亭日乗』のその日(大正12年9月28日)を当たって見ることにした。が、残念無念、この日の記述は、
「震災見舞状を寄せられし人々に返書を郵送す。」
とあるのみで、当の友人宅を訪れたという記述はなかった。『断腸亭日乗』の9月の記述を見ると、荷風は親類や知人の消息を確かめるためか、都内各所を訪ね歩いている。当時、麻布にある「偏奇館」と命名した洋館に住んでいた荷風は、近場の赤坂、青山から、母親のいる大久保や四谷や上野あたりまで足を伸ばしている。
当のUさん、手帳の末尾のプロフィール欄(PERSONAL REMINDERS)の住所欄には、ローマ字表記で、
Neribeicho, Shitaya
とあった。下谷区谷中練塀町(ねりべいちょう)で、今の台東区秋葉原あたりだ。荷風は上野にも来ているので、谷中練塀町に立ち寄ったことは充分考えられる。散歩好きの荷風のことだから、日和下駄をはいてこの友人宅までお見舞いを兼ねて行ったに違いない。
そう思いたい私の目に、その願望に水をかけそうな1行のある記述が目に飛び込んできた。9月26日の『断腸亭日乗』には次のようにある。
「九月廿六日。本月十七八日頃の新聞紙に、予が名儀にて老母死去の広告文ありし由、弔辞を寄せらるゝ人尠からず。推察するに是予と同姓同名なる上野桜木町の永井氏の誤なるべし。本年五月同名異人とは知らずして、浅草の高利貸予が家に三百代言を差向けたることもあり。諺にも二度あることは三度ありといへば、此の次はいかなる事の起来るや知るべからず。……」
なんと上野桜木町に同姓同名の「永井壯吉」がいて、そちらの永井氏が新聞に出した老母の死亡広告を見た浅草の高利貸の手先が、荷風宅にやってきて怪しい「三百代言」を弄したというのだ。
もしやUさんの日記に登場する「永井壯吉」は、こっちの方という可能性もある。今となっては調べる術もないが、私としてはUさんの知り合いが荷風だったことを願う。だから何だと言われれば、それまでだが……。
せっかくだから、『断腸亭日乗』の9月1日を見てみると、
「九月朔。曶爽雨歇みしが風猶烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが架上の書帙頭上に落来るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を弁ぜず。児女雞犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ排いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。……」
とあった。この日の夜は、近くの山形ホテルで夕餉をとり、そのあと午後10時過ぎ、倒壊も延焼も免れた偏奇館に戻っているので、日記はそれから書いたのだろう。当日の天候の記述も、Uさんの手帳の記述と合致している。
Uさんと永井荷風が知り合いだったのか否かにも興味はあるが、それは措くとして、大正12年9月の震災時を記録する二人の日記を読み比べるおもしろさに気付かされただけでもよしとしようか。
永島斐夫