いやー、今回も堪能しました。これまでの小説(特に長編)もそうですが、村上春樹は「たった一つ」のことを、作品ごとに舞台設定を変えながら、繰り返し繰り返し書いているんだと、改めて思いました。

 その「たった一つ」のこととは、「なぜ小説を書くのか」ということの真相(深層)です。

 村上春樹にとって「小説を書く」という行為は、「向こう側」の世界に行くことです。言い換えれば、トリップした先の世界でしか物語を紡いでゆくことができない…いや、違うなぁ、物語の想念が内部で湧き始めたときにはすでに「壁」を通り抜けた「向こう側」にいる、ということか。そのことの不思議(謎)を明らかにすることが、作家である自分自身に課した終生の命題にしたような。「なぜ書くのか」=「なぜ向こう側へ行ってしまうのか」の、その理由をいちばん知りたいのが村上春樹本人なのだと思います。

 でもこれは古今東西の多くの文学者、哲学者(=表現者)が追求し、いまだに解の見出せない見果てぬ夢みたいなものでしょうか。

この小説は、主人公「ぼく」が、影を持たない人たちの住む壁で囲まれた世界(向こう側)と、こちら側の世界(福島県の山奥の町で図書館長を務めている)を往還する不思議な物語ですが、村上春樹は、自身を「ぼく」や「M**くん」に仮託して、その謎を解き明かそうとしています。そしていくつもの小さな物語を重層的に織り込んで、なんとかその真相を少しでも我々(こちら側の)読者の「常識」の網にもひっかかるように、これでもかこれでもかという創意工夫を凝らした物語にして供してくれているのです。

「街」「壁」「門」「溜まり」「影」「本体」「魂」「図書館」「古い夢」「夢読み」「半地下の部屋」……というキーワードから紡ぎ出された小さな物語の折り重なりは、こちらの想像をどこまでも広げてくれて、収拾に困難をきたしそうです。

 あの「壁」に囲まれた世界から何を連想しますか? 身体、家族、村や町などの地域社会、会社、国家という実体ある囲いか、それとも宗教、歴史、イデオロギー、風習、意識(無意識)など実体なき縛りか…。「図書館の古い夢」なら、伝説や神話、DNAに刻まれた太古の記憶でしょうか。こんなふうに一つひとつのキーワードを核とした小さなお話それぞれが、まるで始まりの卵細胞のようで、その一点からまた新たなお話が無限にこちらの頭の中で増殖していきます。

 読み手の持つ想像力の風船にどんどん空気を注入してくれるのはうれしいのですが、その風船に乗ってどこへ飛んでいくかはこちらの自由で、作者の村上春樹がその方向性を縛ることはありません。

 p.150 に「そのどこまでが実体なのか、どこからが虚構なのか、私にはわからない。それでもこの街はそのような歓びを、心の震えを私に与えてくれている」とありますが、「心の震え」という表現も何か所か目につきましたが、これは隠れキーワードだと思います。

 村上春樹にとっては、「心の震え」が創作に向かうきっかけになっているし、それが「向こう側」に誘う根源なのでしょう。何がかくまで自分の心を震わせるのか……これは村上春樹ならずとも、その深層を知りたい人は多い(特に創作活動をしている人)ような気もします。

 それと、作中に「大江健三郎」の文字が現れたのはうれしかったですね。「ぼく」の分身でもある「M**くん」の読書歴にあった作家名としてカフカと並んで挙げられていました。私の中で類推の域に留まっていた大江健三郎──村上春樹のラインがようやく確認できたと勝手に思っていますが、もうすでにどこかで誰かが言っているでしょうね。

 ベレー帽にスカートの子易さんもいいですね。自ら幽霊と名乗っている子易さんと「ぼく」が四角い半地下の部屋で対話する場面なんて、まるで夢幻能の舞台を見ているようです。前作『騎士団長殺し』に出てきた「〜あらない」という奇妙な語尾で話す「騎士団長」と同じく素晴らしいトリックスターで、この物語を生き生きとさせています。

 今読み終えたばかりで、書きたいことも山のようにあってまとまりがつきませんが、最後にこれだけは言っておきたいです。

 村上春樹自身、書いている最中は、完全に「向こう側」に行っていますね。これは比喩でも何でもなく、実際に、です。イタコ(巫女、霊媒)の資質を持っているわけで、それが他の凡庸な作家との決定的な違いでもあるし、だから冒頭にも書いた「たった一つ」のことを、『羊〜』『世界〜』『ねじまき鳥〜』『ダンス〜』『海辺〜』『1Q84〜』『騎士団長殺し〜』と延々と書き継いできたのでしょう。

そんな本物の作家だから、こちらも村上の作品を読んで「心が震える」のです。