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今回は新加入の2名が加わり、かなり活発な意見が飛び交いました。とはいっても批判的なトーンが多くを占めました。
参加者の感想をざっくりまとめると、
人物造形が類型的/設定にも筋運びにもリアリティーがなさすぎる/登場人物が皆、お馬鹿さん/登場人物に共感(感情移入)できない/読んでカタルシスがない……等々。
岩波の「世界」に連載されたのが、安倍政権後期(2016−2020年)の頃、安保法制、特定秘密保護法、共謀罪法が成立、現首相(高市)が総務相として「放送法違反による電波停止命令」を認める発言をするなど、報道・表現の自由への圧力が高まっていた時代でした。
そんな状況下の連載だったからこそ、桐野が、どう闘いを挑んだのか読んでみたかったのと、昨年末に行った推薦作品への投票で4票獲得したこともあって今回のテキストとなりましたが、残念ながら読後の期待ハズレは大きいものでした。その期待ハズレ感は、上記の皆さんの感想とほぼ重なります。
初読にあたって私の期待感のベースになったのは、①岩波「世界」での連載小説、②桐野の反権力的スタンス(日本ペンクラブ会長就任は、『日没』刊行後の2021年)、③「表現の自由」をテーマにした社会派小説──という3要素でした。
この3つの土台の上に、単なる政治的メッセージや左派イデオロギー的恣意性に潤色されていない「文学作品」が生まれることを熱く期待したのですが、それは叶いませんでした。小林多喜二はともかく、オーウェルやハン・ガン級の質を求めてしまったためか、失望は大きく、批評というより「否定」的言い方をしてしまったのは、反省すべきと、感じています。
しかし読書会後、しばし時間を置いて考えたら、もしや桐野はこの作品を戯画的(わかりやすく言えば漫画として)に描こうとしたのではないか? ということでした。ジャーナリストやルポライターの取材記事でも学者の論考でもなく、一人の小説家がこのテーマで描くなら、メッセージ性を行間に隠し、あくまでも文学作品として読ませねばならないでしょう。それを思えば、むしろ戯画化した方が描きやすいに決まっていて、その線で桐野がお話づくりを展開しようと考えたのなら、リアリズムを多少犠牲にしても仕方なし、お話の面白さを優先しようとした──というのなら、納得できそうです。
ところが、文庫版『日没』の解説者は、「『日没』は、近未来のというよりは、ほとんど現代の日本を舞台としたディストピア小説と言えるだろう。未来のいつか日本に起こりうる事態を想像したというよりは、すでにいま起こっているかもしれない事態を強烈に増幅して書いた警世の書として読める」と、きわめて公式的(好意的)な解説を書いています。これは、思想的立場を同じくする同業者からのエールであって、文芸批評とはとても思えません。
「立場上」この評価に異議を挟むことはできないでしょうが、桐野自身、本心ではどう思っているでしょう。読書会参加者のお一人は、「桐野はこの評価を欲しくて書いたのではないだろうか」と言いました。なるほどと思いましたが、反対に「困ったなぁ…」と内心感じている桐野もいるような気もするのは、考えすぎでしょうか。
その方から、読書会後、メールで送っていただいた感想的桐野評、興味深いご指摘だったので、勝手ながら紹介させていただきます。
「(桐野夏生は)少し前から社会状況や社会問題を表立って題材にするようになったのですが、それに伴ってリアリズムというより誇張した設定や表現をますますするようになっている気がします。基本エンタメで嫌(いや)ミス系統のマインドの人なので、社会状況や組織(政府含め)についても取材をするのでなく、自分の想像力だけで上塗りするために、傍目ではしばしば上滑りになっているように見える、ということではないか、と個人的には思っています。……桐野さんにはやはり単なるエンタメ作家ではないという自負があって、それでだんだん大風呂敷を広げるようになったが、その収め方をあらかじめ詰めてないため、しばしば広げっぱなしで収拾がつかなくなる、その典型が『日没』では?」というご意見。思わず頷いてしまいました。
直木賞以降、数々の賞をものし、今や評価の定まった大作家ですが、こと『日没』に関しては、リアリズム展開はもちろん、戯画化(寓話化)にも失敗した中途半端な作品と思わざるを得ませんでした。比べるのは酷かもしれませんが、村上春樹(『街とその不確かな壁』など)やハン・ガン(『別れを告げない』など)の一連の作品は見事に「文学」になり得ていますし、オーウェル(『1984』など)やカフカは、奥底にメッセージ性を秘めた寓話的名作を今に残しています。
最後に一つ、読書会参加のもうひと方からの問いかけについて。
作中、多田所長と主人公のマッツ夢井が、ヘイトスピーチ法をめぐって「表現の自由」とは何かについて議論する場面がありました。マッツは、「そもそもヘイトスピーチは、表現ではありません。あれは煽動です。差別そのものです。でも、芸術表現は創作物なんですから、創作者が責任を持つものです。一緒にするのは間違っています」と、真正面から正論を言い放ちます。おそらくここが、桐野が『日没』に込めたメッセージの核心でしょう。小説だから議論という見せ方での「両論併記」にしていますが、これを、あなたはどう考えるか? と
問いを投げかけたのだと思いました。即答できなかったのは、この問いに対する明確な解を持っていない自分に、気づいてしまったからでした(私の場合)。皆さんはどうでしょうか。
それを気づいただけでも、『日没』を読んだ意味はあった、と思っています。


